映画 ソロモンの偽証(前編)の感想 ~この映画の何が素晴らしいのか?~ ★★★★☆
予告篇に惹かれソロモンの偽証(前篇)を見てきましたので、その感想です。
わたくし、恥ずかしながら宮部みゆきさんの作品を原作を含みまだ読んだことがないので、映画としての感想に絞られる点、ご了承ください。
さて、この作品。
まだ前篇ではありますが、めちゃくちゃ面白かったです。
4/11に後編が公開予定ということですが、今から待ち遠しくてなりません。
→観てきました。後編の映画評はこちら
原作も勢いで買ってしまいましたが、読みたいけれど映画を見終わるまでは読みたくない、、、と嬉しい悲しさを感じております。
簡単なあらすじの後、前篇だけではありますがどのような点が素晴らしかったのか、ネタバレなしで書きますので、興味を持たれた方は是非映画をご鑑賞されることをおススメいたします。
あとこの作品の宣伝画像、ダヴィンチの最後の晩餐をモチーフにしているわけですが、、、ちょうどユダ(裏切り者)だけ写っていないのですね。
いったい誰がユダ(偽証)をしているのか?後編が楽しみです。
深く雪が積もったある日、終業式を迎えた中学校で雪に埋もれた死体が見つかる。
死体は、その中学校の男子生徒。
見つけたのは、クラスメイトの涼子。
彼の死は校内で瞬く間に噂を呼ぶものの、警察の捜査では自殺と決着がつく。
しかし平静を取り戻そうとしていた最中、関係者のもとに一通の匿名の手紙が届く。
『ボクは目撃者です。彼はクラスメイトに殺された。その犯人の名は』
そこには涼子も知る生徒の名前が書かれていた。
事件は蒸し返され、マスコミの知るところとなり、騒動は大きくなる。
男子生徒の死は自殺なのか、他殺なのか?
少しずつの真実を知る皆と少しずつの悪意と嘘が本当に起こったことを見えなくする。
やがて主人公は、自分たち自身の手で、この事件の真相を究明することを決意する。
この映画の素晴らしい点
まずは映画として非常に素晴らしいです、この作品。
役者、美術、ストーリー。
全てが細心の注意をはらわれてつくられていることが観客に伝わる凄い作品でした。
一級品です。
簡単に、上記3点についてネタバレなしの感想を。
俳優について
この作品は中学校を舞台にしているということで、大きくは事件の主軸となる中学生とその親たちという2種類の俳優陣がでることになるのですが、両者ともに本当に素晴らしい。
まず親たち。永作博美さん、佐々木蔵之介さん、小日向さんらの実力文句なし。
ドランクドラゴンの塚地さんがある生徒の親役ででているのですが、その奥さん役の方(お名前わからないのですが)がとにかくすごい。
臭いところ一切なく、フィクションとリアルの狭間を演じ切っています。
久しぶりに演技そのものでグイと引っ張る力のある人をみて物凄く気持ちがいいです。
次に生徒たち。
これはもう、オーディションで各々選らんだということですが、たまらないですね。最高です。
この作品の”味”である思春期特有の息苦しい”出て行けなさ”、”真っ直ぐでありたい”という愚直さとその裏返しとしての他者への残酷さ。
自分自身に対する寄る辺なさやバランスの取れない人間関係。
これらを全員がただ自分たちが本当に中学生であること自体によって見事に表現できています。
これが映画の興行や”見栄え”を気にしてアイドルやモデルを起用しまくっていたら、この作品は大失敗していたことでしょう。
恐らくそのような提案があったろうとは想像しますが、それらを断り、この作品の肝である思春期の息苦しさを体現する役者たちを見つけ、起用したことはこの監督の作品に対する誠実さの表れでしょう。
こういうのを見ると嬉しくなってしまいます。
漫才コンビまえだまえだのお兄ちゃんがもう、なんとも言えずいい意味で中学生の童貞的な凡庸さを演じ切っています。嬉しいです。
また、主人公の藤野涼子役の藤野涼子さんも素晴らしいです。
凛として振る舞うその演技は、作品の役どころとして多弁ではなくむしろ沈黙で画面を引っ張るのですが、これだけ傷つき真摯であろうとした役柄を演じ切れる”顔”は演技初挑戦とは思えません。
舞台美術の素晴らしさ
時代背景は90年代初頭バブルの終盤が設定されているのですが、各生徒の家庭の個々小物をはじめ当時の雰囲気の再現力がまたいちいちとグッとくるレベルで達成されています。
作中でお米屋さんが少し出てくるのですが、その店の雰囲気といったら。
僕が子供のころはまだお米屋さんがあったものですが今ではもうすっかり消えてしまっています。
楽しみ方としては少し本道ではないかもしれませんが、「そうそう、俺の友達の家こんなんだった」というシーンが多々あると見たひとは感じるのではないでしょうか?
この映画の素晴らしさ ~ストーリー~ (ネタバレなし) 勇気と無謀の違いとは
さて、ストーリーですが、あえてこの作品の――少なくとも前篇の――キーワードを上げるとすれば、『嘘』と『勇気』でしょう。
いわゆる大きな謎を観客に提示し、その真相がなにかを求心力としてストーリーがドライブしていくのですが、実は通常のミステリーとは異なり、この作品の魅力は『死の真相は何か?』といったところにはありません。
そうではなく、『死の真相は何か?』という一種の空白――全員の共通見解がない事柄――の周辺で、それぞれの小さな善意と悪意が絶妙に紐づきあって雪崩のように誰にも止められなくなるその『回転力』にあります。
少し実話をします。
とあるマンションに妊娠中の妻とその夫が暮らしていました。
ある朝夫は、ゴミを出しに外を出ます。時間にして10分もないでしょう、彼はすぐに戻るからと妻にいい、鍵を閉めずにゴミを捨て、部屋に戻ると妊娠中の妻が部屋で倒れているのを発見します。
腹を包丁で縦に裂かれ、なぜか”黒電話”を胎児の代わりに詰め込まれた状態で。
この異常な事件はマスコミでも取り上げられ、いまだに未解決事件であるということでご存じの方も多いかもしれません。
しかしこの事件、少しだけ続きがあります。
迷宮入りしたと思われたこの事件に犯人を知っているという名乗り出る人物が現れます。
彼女の証言を警察も取り上げ、調査が進みます。
彼女はその犯人と思える人間の不審な行動を観察し、記録し、そして自分にも危険が及んできたことを訴えるのです。
しかし、彼女の証言が怪しいことがわかってきます。
彼女は”犯人だ”とした人物は全く事件とかかわりのない第三者で、彼女の日記がどうも全て妄想であるらしいということがわかったのです。
彼女は警察に当然無視されることになるのですが、しかし、今もその日記はページは増え続けているという……。
僕がこの話を聞いて心底恐ろしくなるのは、ある異常な事件の事柄が起きた後では、その周辺に漂う悪意がまるで悪霊のように生きている人間の善意や悪意や偶然を糧に、少しずつ少しずつ当初私たちが「ポイントだった」と感じていた中心点から事件の本質をずらしはじめ、気が付けばいったい何がポイントであったのかも、「なぜこうなったか」かもまるでわからなくしてしまう、というところです。
そしてそれは、特別なことでも異常者にだけ起こることだけでもなく、ただ人と人が関わりあうだけで、そのような「とどまることのない悲劇」が起こってしまう、ということです。
ふぅ。
少し話がそれてしまいましたが、この映画の何より素晴らしい点はそうした少しずつの作為と無作為、善意と悪意が悪霊のように事態を混乱させ、関係者を傷つけていくそうした過程を見事に描き切っているからだ、という点です。
こうした作品は、モノづくりを考えたことがある人なら一度は目指すものでしょう。
とここまで絶賛しておいて4/11の後編がずっこける内容だったかなりショックですが、、、。
そしてさらにこの作品は、そうした一種の”悪霊”を表現しきることに加え、それに立ち向かう『勇気』を主人公たちが葛藤の末目指したところがまた素晴らしい。
よく勇気と無謀は違う、といいます。
そして往々にしてそのような言い方は、無謀であることを馬鹿者であることとほぼ同じ意味として使います。
僕もそう思います。
しかし本当にそうなのでしょうか?僕にはこの映画を見て改めてそれがわからなくなってしまいました。
主人公たちは自分たちの意思を通そうとするも、激しい抵抗にあいます。
僕ならすぐに心折れてしまうと思います。
こんな図は大小はあれどどのような組織にもあるものです。
例えば「社長のいう提案に代案をだそうだなんでそりゃ無謀だよ、バカだなー首になってもしょーがねーよ」と。
そして社長にこっぴどく怒られる無謀な社員。
僕は無謀は嫌だと怒られないよう、黙っているような社員でした。
けれど、それが正しかったのかわかりません。
こうしたテーマは黒沢明の『生きる』でも取り上げられた内容です。
勇気と無謀は異なります。
けれど無謀でないことと勇気がないことは限りなく近いのではないでしょうか?
僕にはその境目がわかりません。
そしてそのような気持ちを起こしてくれたこと自体に、この映画の価値があるのだと僕は思うのです。
ちなみにこの前篇をみて、僕なりの『事の真相』の予想をしているのですが、かなりイイセンをいっている気がしています。
あってたらいーなー。