ムーンライトを理解するための3つのキーワード
※ネタバレあります!
ラ・ラ・ランドを抑えてのアカデミー賞作品賞受賞ということでも注目を浴びていた『ムーン・ライト』。
公開初日に早速行ってきましたが、正直に言ってこの映画を語るのは非常に難しい。
というのもLGBT問題を取り扱った作品の『周辺』には、どうしてもある種の政治性がついてまわるからです。
い』とか、LGBT『だからダメ』だとか、できればそういう所から『離れて』作品を楽しみたい、という想いがある。
まず誤解のないように先に自分の立場を明言しておくと、僕自身はLGBTに『限らず』、自分自身の与えられた魂が伸びたいと思う方向に自らを育んでいける社会であって欲しいし、自分もそうありたいし、周囲の人にもそうあって欲しい。
そしてまた、与えられた魂の形は自分で選べるものとは限らないとも思っている。
どうしようもない。
背の高さ。頭の良さ。時代。肌の色。病気。家族。etc/etc
そうした『変えようのないモノ』を理由に僕自身が何事かを排斥しようするのであれば、それはそのまま全く同じ理由によって僕自身が排斥されることになるとも考えている。
『お前不細工でバカな日本人の男なんだろ?背も高くねーし。オメー幸せになる資格ないから』
そう言われても困る。
ほっといて欲しい。
とにかく僕は、政治性から離れてこの作品の核に触れたいと考えていたのだ。
そしてこういう長ったらしい前置きの後で改めて言うと、作品を鑑賞してからあぁだこうだ考えたあげく、出した結論は、『ムーンライトの本質はLGBTという点にはない』、というものだった。
また同時にムーン・ライトの本質は、『(LGBTに関わらず)純粋な恋愛の姿』にもない。
はっきり言えばこの作品の本質は『LGBTの恋愛ではない』と僕は思う。
この作品の本質となるキーワードは3つ。
それは
- ダブルマイノリティ
- コミュニティ不在
- ロールモデル不在
である。
『ムーンライト』の本質は『自我の確立に挫折『せざるを得ない』人間の姿と、その傷が回復しかかる一瞬の美しさを捉えた点』にこそあると僕は思う。
僕は正直に言って、最初に観た時はそこまで心動かされなかった。
けれど色々と考えるうちに、この作品の奥底に気持ちが届いていく感触があった。
今回エントリーでは、なぜ最初は心動かなかったのか?
次になぜ動かされるようになったのか?
その変化について、上述した3つのキーワードを交えながら、ムーン・ライトの考察・批評・感想を述べていきたいと思います。
なぜ最初はピンとこなかったのか?
先にも述べたけれど、僕は正直に言って初めて観た時にはそれほど深い感動はおぼえなかった。
黒人の『LGBT』という要素を『ひっぺがして』映画を観た時、僕はシャロンという人間をそこまで好きにはなれなかったのだ。
父親不在で、母親はヤク中。母親は息子を罵り、拒絶し、本人の性的指向としてはゲイかつ内気で周囲にいじめられている。
何重苦でもあるのはわかるのだが、僕が最初にどうしても気持ちがノれなかったのは、シャロンがほとんどその困難に立ち向かうこと(=自己存在を他者に否定させないという闘い)がなかったように思えたからだった。
『悲しい。』
『辛い。』
『でしょ?』
『可哀そうだよね?』
『わかってあげられる?』
みたいな作り手側のある種の自己憐憫/自己愛の強さが鼻につく作品に思えたのだ。
それは美しい映像美とは別に『もったいぶった』カメラワークにもそうした自己憐憫/自己愛の強さを感じた。
正直に言えば僕が望んでいたものは『困難に立ち向かう瞬間』だった。
『俺(僕)も辛いけど、お前(シャロン)も頑張ってるんだな!よし、俺も!』 みたいな。
(恥ずかしながら)情けない僕のある種の『代理戦争屋』としての役割をシャロンは果たしてはくれなかった。
それがまず不満だったのだ。
立ち向かうべき困難は僕にとって、決して社会的なものでも、大きなものである必要もなかった。
(それこそ立ち上がる瞬間でありさえすれば、初めてのおつかいレベルでもよかった)
主人公の『立ち向かわない姿』をスルッと受け入れる気持ちにはなれなかったのだ。
しかし、よくよく作品を咀嚼するうちに、そもそもそのような観方こそが誤っていたと思うようになった。
この作品は、『そもそも立ち向かえない状況にいることそれ自体』、あるいは『心折られる瞬間をこそ』まず描こうとした作品であると思うようになったからだ。
3つのキーワードと物語の構造
ではなぜムーン・ライトが『そもそも立ち向かえない状況にいることそれ自体』を描こうとした作品であると言えるのだろうか?
そのことを理解するためには、まず、この作品を形作る以下の3つのキーワードを理解する必要がある。
- ダブルマイノリティ
- コミュニティ不在
- ロールモデル不在
シャロン少年は、『黒人 かつ ゲイ』というダブルマイノリティ(複数の少数派属性を兼ねている)という属性を持っている。
シングルマイノリティは確かに辛くはあるけれど、しかしシングルマイノリティ同士のコミュニティが存在したりもします。
アメリカで黒人はマイノリティ(少数派)として位置づけられる。
しかし、黒人は黒人同士固まり、強固なコミュニティを築く。
(映画オタクは映画オタクとして少数派だが、映画オタクという属性でつながることがある)
それは白人のゲイコミュニティについても同様です。
白人のゲイコミュニティも存在し、そこではゲイであるということが許容される。
しかし、『黒人であり かつ ゲイでもある』であるというコミュニティはアメリカであってもまだまだ少ない。
ましてやシャロン少年の住んでいるマイアミなどには存在しないのが実情のようです。
例えば以下のサイトを見てみてください。
これは、アメリカ在住の黒人かつゲイである人々が自らを表現する場として立ち上げたアートメディアを紹介する記事です。
メディアを立ち上げた背景部分を読むと、シャロン少年がいかに厳しい環境で過ごさざるを得なかったかを想像する助けになります。
http://heapsmag.com/the-tenth-magazine-creative
※紹介記事はこちら
ポイントとしては以下の2点です。
『黒人コミュニティは保守的かつマッチョな部分があり、ゲイ(性的マイノリティ)は排斥されやすい』
『NYのような極一部の都市で暮らす人間を除けば黒人のゲイは存在自体を否定されるか、『笑いモノ(=オネエキャラ)』として生きていくしかない』
アメリカであれば都市圏にいくらでもLGBT問題に先進的なコミュニティがあるように想像されるかもしれませんが、実態としては都市圏であっても決してイージーなものではない。
ましてやマイアミのような地方都市をや、です。
ダブルマイノリティということは、それだけコミュニティに属せる可能性が低い、ということでもあるわけです。
ダブルマイノリティであるということ
シャロン少年はマイアミという『黒人かつゲイ』というコミュニティが不在の地域で少年時代を生きざるを得ませんでした。
こうしたダブルマイノリティのコミュニティ不在という問題は、決して『黒人 かつ LGBT』に限定されたものではありません。
例えば『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ』の作者として知られるJ・D・サリンジャーは1900年代前半のNYでハーフ・ジューイッシュ(ユダヤ人とアイルランド系白人)として生まれ、育ちます。
当時のユダヤ人への差別意識はアメリカにあっても相当苛烈であったようで、例えばクラスメイト同士であっても一冊の卒業アルバムの中でユダヤ人と白人とが分けて作られる学校も存在しました。
なぜわざわざ一冊の中でページを分けて作る必要があったのでしょうか?
それはユダヤ人のページを一撃で切り離して捨てられるからです。
それ程までに苛烈なーーかつ、一見してそうと気づきにくいーー差別的環境にいたユダヤ人たちも、しかし、彼ら同士の間では結束することができる。
教会があり、習慣があり、互いに守るべき規律がある。
しかしサリンジャーはそこに混じることはできません。
『ユダヤ人 かつ ハーフ』という属性に生まれたサリンジャーは、どのコミュニティからも『お前は”俺たち”と違うから失せろ』という環境で生きていかざるを得なかったわけです。
コミュニティ不在であるということ
ダブルマイノリティとして生きるということは、多くの場合、コミュニティから排斥されるか自らを偽るかのいずれかとならざるを得ません。
自らと同じくする人々とコミュニティを立ち上げるには、そもそも同質のマイノリティの絶対数が少ないということもありますし、同種の人間を発見することも難しい。
(例えば前述の『ライ麦畑』は、『俺の生まれとか育ちとかそんなこと話すつもりはないからな』という一種怒りにも似た宣言から物語が始まります)
では、そうしたコミュニティ不在は一体なにを引き起こすのでしょうか?
コミュニティの重要機能のひとつに、『人が生まれてから死ぬまでの『だいたいの有り様』を構成員間で共有する』、というものがあります。
地域や家族の姿に、自分のこれからの生き方を見出していく。
入学→卒業→就職→結婚→出産→定年→死亡
こうしたイベントを自然なものとして自分の将来像を描いていく。
言い換えれば、私たちは自分が所属するコミュニティから、生き方の見本(ロールモデル)を与えられて生きていると言ってもいいわけです。
そうしたロールモデルは時に自らの(あるいは他人の)価値観を縛るものにはなります。
『あいつなんで結婚しねーの?』
『子ども生まないとかカワイソウ。』とか。
場合によって『長生きしすぎだろ』、とか言われたりもしちゃう。
しかし一方で、そうしたロールモデルは、『人生を地に足ついたものにする』効果も同時にもたらします。
とにかく『人生迷ったら周りに合わせて流れにのってればいい』わけです。
例えば日本に生まれた少年の多くは、『そろそろ13歳になるし。まぁライオンでも狩るかぁ』みたいな人生設計を自然にはしません。
『高校だけは行くかなぁ』みたいな決断を薄ぼんやりとしていく。
ロールモデルをもてないということは
ではロールモデルがもてない人生とは一体どのようなものでしょうか?
それは、『将来きっとこうなるだろう』という『穏健』な予測がたたない、ということです。
そもそも自分は『はぐれもの』なわけです。
どこにも先輩がいない。
『自分はきっとこうなるだろう』という予測の立たない不安を常に抱きながら生きることになる。
仮にこうなりたい!という先輩がいたとしても、恐らくはその人も同じ『はぐれもの』である可能性が高い。
『お手本』がいない人生は常に『自分のことは自分で決める』覚悟と孤独を背負わざるを得ません。
ムーン・ライトの物語の構造と分析
さて、それではいよいよ、ここからムーン・ライトの物語へとより深く入っていきたいと思います。
が!
さすがに長くなりすぎるので、一旦エントリーを切ります。
次回は、
です。
ムーンライトの主題に対し、3部構成がどのような意味を持っているのか? に加え、
『なぜフアンはシャロンに優しくしたのか?』をキューバとアメリカの歴史を踏まえて解説したいと思います。
どうぞこちらもよろしくお願いします~!