セッション、みてまいりました!
この映画、かなり人によって解釈/感想が分かれるだろう映画であるように思います。
しかし全く異なる解釈が成り立つことは映画の器の大きさであり面白さである、とぼく自身は思っていますので、その意味で、非常に面白い映画でした。
あらすじ以降に、ネタバレありで、感想・批評をまとめてみたいと思います
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【映画評】ラ・ラ・ランド 必ずもう一度観たくなる物語構造批評の決定版
あらすじ
名門音楽大学で、日々ジャズドラムの修練に励む、ニーマン。
ある日、ニーマンは同大学の教師であるフレッチャーに、彼のバンドのドラマーとしてスカウトをされる。
ここで実力を発揮することを期待したのも、つかの間、待ち受けていたのは天才を生み出すことに執着するフレッチャーの想像をはるかに超える鬼教師ぶりだった。
そのスパルタ式教育に精神をやられてしまうものがいる中、ニーマンは自らの才能を開花させ、伝説になりたいという一心から、フレッチャーの過酷過ぎる要求に、己の全てを捨てて応えようとする。
しかし、、、
セッション総論
さて、この『セッション』ですが、全体としては非常にシンプルな筋書のお話です。
ニーマンという主人公が、goodjob的世界観の象徴である平凡な父や、生き方の定まらない美しい少女との恋といった俗世的なもの全てをかなぐり捨て、フレッチャーに対する承認欲求や、復讐心、自己実現の想いを全てに優先させ生きる、狂気的といえば狂気的な筋書のお話です。
この映画の興奮・見所といえばやはりラストシーンにとどめをさすでしょう。
ニーマンがフレッチャーの制止を振り切り怒涛のドラミングを繰り出すあの瞬間は、その音楽的な価値によらず、観客の「いいぞ、やってやれ!」という声を引き出すに十分な力があったのではないでしょうか?
しかし、一種の復讐物語として機能していたあの怒涛のドラミングの果てに、フレッチャーがニヤリと笑い、ニーマンがそれに答えた瞬間、この物語の誰が敵で誰が味方であったのかが、突然わからなくなってきます。
フレッチャーの不敵な笑みとニーマンのドラミングが奇妙な一致をみせ終えた時、私たちはこの物語が単純な成長物語でも復讐劇でもないことに気付き、そこに驚きや感動だけでなく時に居心地の悪ささえも覚え、エンドロールをしばし茫然と眺めることになるのです。
生殺与奪を握られた部下~ブラック企業の上司としてのフレッチャー~
さて、このセッションですが、僕としては正直に言えば、かなり見るのがきつかったシーンがありました。
というのも、フレッチャーのサイコパスな感じに何とも言えず以前勤めていた職場のカリスマ上司とがダブってしまったからです。
部活や会社、サークル。
どのような小さな組織であっても、その組織のトップに生殺与奪の権限を全て握られているとメンバーが感じる時、彼からの要求がどのような理不尽なものであっても、その配下のメンバーはなかなかその要求を理不尽なこととは考えられなくなります。
その組織ではトップに疑念をもつことは、組織内での役割を失うこと=“社会的な死(夢の断念)”を意味しますし、事実そのことによって実際的に“死ぬ”メンバーが現れてきます。
トップによる恐怖と期待をない交ぜにしてメンバーを管理していくその手法は一種洗脳的ではあるのですが、しかしその効果は大きく、ハマればハマるほど、その組織で生きていく以外の選択肢に思い至らなくなっていきます。
ここでは二つの疑念が封じられます。
まずボスへの疑念。
この疑念をボスにかぎつけられたが最後、彼はその組織で生きていくことはできません。
二つ目。
それは組織への疑念です。
この組織が正しい組織か、その他の組織はどのようなものか?そうした疑念を持つことは許されず、代わりに彼は、“疑念を持つこと自体”が、自分自身の能力・努力の不足である、と感じるようになり、さらにがむしゃらに組織・ボスへの貢献を推し進めます。
そして、この「疑念=死の宣告」という環境の中では、意外なほど内部からはそのボスへの不満というのは漏れてきません。
ニーマンもフレッチャーへの告発に協力するか弁護士に求められた際、理不尽な思いをしたという不満と、成長をさせてくれたという“恩”との間で揺れ動きます。
ボスに対する不満を感じてはいけないという環境では、メンバーは100の理不尽の記憶よりも、ボスから受けたささやかな1の期待を大切にします。
それこそその期待を“骨をしゃぶるように”大切にして、ボスへの不満を自分自身の努力不足に転嫁して生きていくのです。
(このあたりの告発をためらうあたりの心理描写は見事です。素晴らしかった)
そうした組織では、一時的な成果はあがるもののその裏には当然ながら“使い潰された”人間が多数出てきます。
しかし、このフレッチャーに特徴的ですが、そのような“死者”がでても本質的には彼はそのことを悲劇とは感じません。
彼自身にも恐らくは無意識のうちにある種の記憶の改ざんを行い、本気で嘆くだけで、決して彼自身の行いが悲劇の原因となったかもしれない、という自省を見せることはありません。
天才は椅子を投げられなければならない
さて、そんなフレッチャーは、チャーリー・パーカーを引き合いに、天才を生み出すことを自分のミッションとして生きていることが劇中描かれます。
彼は、「チャーリー・パーカーが天才になれたのは椅子を投げられたからだ」とニーマンにいいます。
しかし、(この物語の良し悪しとは別に)この理論は教育者としてのフレッチャーの中で奇妙な転倒をみせています。
「天才になるために(お前たちは)椅子を投げられなければならない」
フレッチャーの中では、チャーリー・パーカーという一個人に起きた出来事が、天才という存在を生み出すための手法として絶対化され、一般に敷衍して適用されます。
しかし、このブログを読んでいる方はすぐにおかしなことに気づくかと思います。
椅子を投げられなくても天才であった人はほかにいくらでもいるでしょう。
椅子を投げられたことで天才になった人がいることと、椅子を投げられなければ天才になれないことは違います。
(そもそも椅子を投げられたから天才になったかどうか、因果の順序がかなり怪しい)
しかし不思議なことに――この映画の上手さでもあるのですが――、劇中で、この天才育成ロジックをフレッチャーはただの一度も疑問に思いません。彼は、天才を生むために椅子を投げなければならないと信じ切っている(ように見える)のです。
また、ニーマンもこの理屈に疑念を抱くことはありません。天才になるために自分は椅子を投げられなければならない、そして、椅子を投げられてダメになるのは、自分が天才でない証拠となってしまう、、、と。そして彼はガムシャラにスティックをたたき続けるのです。
フレッチャーの自殺した弟子とニーマンとには、ひとつの共通点があります。
それは、フレッチャーに声を掛けられなければ、恐らくは埋没していただろう、どちらかといえば凡才の評価をされていた、という点です。
ニーマンは凡才的なるものを(実の父親であれ)嫌い、振り払おうとします。
そして凡才的なるものから唯一逃れられるメソッドとして、ニーマンに示されたのが、フレッチャーの椅子投げ(られ)育成法だったのです。
しかし、この育成法は明確に“使い潰す側”の論理によって成り立っているといえるでしょう。
なぜならこの論理に従っている限り、使い潰した側は使い潰したことに(外部的な圧力がない限り)責任をとらなくていいからです。
椅子を投げることはフレッチャーにとって天才育成のための必要条件であり、その後大成するかどうかは、極端な話お前次第で俺は、知らん、という理屈なのです。
椅子を投げられた側がどうなるかといったことは彼の管轄外で、彼にとっては“椅子を投げ続けること”だけが、育成の基本方針なのです。
その意味でこのフレッチャーという人物は極めてサイコパス的で、ブラック企業経営者的でもあります。(繰り返しますが、そこにこの映画の魅力があるのですが)
ブラック企業的、という意味では居酒屋和民で新卒社員が過労死した際の創業者の対応・発言がフレッチャーにクリソツです。
彼は過労死したことを受け、こう言います。「ここで働き過ぎて死んでしまうような学生をとったわたしがバカだった」と。
彼には働き過ぎを防止する発想はありませんし、働かせ過ぎたことを反省する発想もありません。
働き過ぎることは彼にとって部下が新しい世界(経営)にいくための明確な手段であり、云わば天才になるための具体的施策でした。
彼にとって働かせ過ぎること(椅子を投げること)は善以外なにものでもなく、仮にそのことを受けて死んだとしても、それは死んだものの過失(ないし資質の欠如)に過ぎないという発想です。
そして彼らが悪人か?と言われれば、決してそうも言い切れない複雑さがしっかりとこの映画には表現されています。
彼らは決して私心で動いているわけではありません。
ある意味で社会的な使命感すらもっています。
そして、意外な程に自分の組織の外の弱者には優しさを見せる。
(フレッチャーの小さな女の子への優しい笑顔はなんとも象徴的です)
しかし、その優しさと苛烈さが、恐らくは本人にも自覚できないレベルで渾然一体となり、見るものに、彼が一体なにものなのか、簡単には言葉にできない異物感を残し、そのことが余計に周囲の人間をして、下手なことは言えない、という空気を作り出していくのです。
(フレッチャーのバンドのメンバーが皆萎縮して、ついにニーマンを除き誰も笑うことなく終わるあたりもいかにもブラック的です)
間違った場所で、間違った方向で、十分になされる努力~努力論としてのセッション~
ニーマンは、そんなフレッチャーに反抗することはあっても、フレッチャーの教え(椅子投げ理論)を疑うことは劇中に一度もありません。
彼は努力の積み重ね的にドラミングのスピードをひたすら上げ、フレッチャー理論へのカウンターとして、「音楽は楽しむのが一番!愛だよ、愛!」的笑顔を作ることもありません。
この映画には最後の最後までニーマンの演奏を楽しんだ人物は一人も出てきません。フレッチャーひとりを除いては。
そのことをして――観客不在の音楽を奏で続けること――、この映画に音楽的価値がないというのは、個人的には的外れであると感じています。
ある意味で、ニーマンもフレッチャーも、真に音楽の素晴らしさを観客に伝えてくれる人物ではなく、そしてそのような人物のドラマとして、この映画がつくられていると僕は思うからです。
ある意味でこの映画は、「間違った場所で、間違った方向で、十分になされた努力」の映画でもある、そんな風に僕は思いました。
それにしても、J・K・シモンズの演技は凄いですね、彼の演技だけでももう一度見たいくらいです。あとニコル、めちゃ可愛かったですね。