もしあなたが自由に生きていきたいのなら

 

絶歌の出版元太田出版が、今回の騒動についてコメント発表した。
要旨としては、社会に役立つ内容と思ったから遺族がどう言おうとこの本で商売することに文句は言わせないし、そのことが出版の意義だ、というような内容だった。

 

この本については色々な論点があり過ぎる位あるが、まずちゃんとさせておかないといけないのは、この本は別に“元犯罪者の本だから”叩かれているわけではないし、また逆に元犯罪者の本”だから“出版する価値があるということでもない、という点である。

 

例えば極端なことを言えばあのホリエモンだって元犯罪者ではあるが、今でも沢山の本を出しているし、そのことを叩くひとなど相当少数派だろう。

 

また、例えば永山則夫という戦後類を見ない連続殺人犯も手記なり小説を出版しているが、しかし今回のような批判はもはやなく、そこには一種の文学的評価すらある。

 

今回の絶歌が本質的に“内容の部分で”ダメな点は、上述した人たちと決定的に異なり、 “殺人中”の気持ちや情景、死体の状態”を表現(再現)してしまっている点にある。
(内容以前にダメな点の方が多いが、そのことについては別で整理してエントリーする)

 

殺害シーンを削除しなかった太田出版の損得勘定

事件全体を3つの時系列に分けると大きくは以下のようになるだろう。

 

 @ 殺害前の情景・心理
 A 殺害”中“の情景・心理
 B 殺害・逮捕後の情景・心理

 

 

これまでも元犯罪者の人による出版物で、@なぜ私は殺人を犯したのか、といったテーマやBその後どのような後悔が私を襲ったのか、というテーマのものはないわけではなかった。

 

しかし、決して“A今も静かに生活を送る遺族がいるにもかかわらず、「あなたの息子をこんな風に殺して、こんなことして、凄くその時気持ちよくなったのだ」“といったことは書かれはしなかった。

 

もし、今回の本のテーマが出版社の言う通り、

 

“「法により生きることになり、社会復帰を果たした彼は、社会が少年犯罪を考えるために自らの体験を社会に提出する義務もあると思います」”

 

というものであったとき、果たして本書で本当に『殺害“中”』の描写が必要だったのか?

 

恐らくはまるでない。

 

例えば恋愛映画などで、完全にセックスを再現したシーンががなくても恋の何たるかを観客に感じさせることはできる。

 

挿入や射精がないことで、「なんだ。この恋愛映画つまんない。だって本当の恋愛じゃないんだもの」なんてことは観客は思わない。

 

そんなシーンは全くなくても成立させることはできたし、実際に成立しているものはこれまでの歴史上いくらでもある。

 

しかし、“猟奇殺人を再現したり、忌まわしい事件への興味をかき立てることを目的にしたものではありません”と明言する出版社・編集者は、殺害中の描写を残した。

 

いらないはずのシーンを残したのだ。

 

なぜだろう?
可能性は2つある。

 

ひとつは、編集者が無能という可能性がある。
このように批判を受ける可能性を想像できず、遺族の心情も想像できず、元少年Aと呼ばれる30代の男の表現欲求のままに筆を握らせ続け、そして何の編集もせずに世にだした、という可能性。

 

もうひとつは、その方が“刺激的であり”、“話題になり”、“売れる”と計算していた可能性である。
世間は(このように)沸騰し、誰しもが太田出版の名をSNSに書き込み、どのような本なのか興味を掻き立てさせる。
そして結果として本は売り切れ、重版がかかる。
そのたびに元少年Aと呼ばれる誰かに何千万か入り、もちろん出版社にはその何倍もの、億単位のお金がはいってくる。

 

なんとまぁ邪悪なことか、と思う。

 

社会正義が呼ぶ”やりきれなさ”

恐らくは今頃彼らのオフィスには抗議の電話が鳴り響いていることだろう。

 

けれど、社長の元にも編集者の元にもその声は直接に届くことはない。

 

恐らくはアルバイトとして一時的に雇われた電話対応者のメンタルだけが削りに削られて、一日の電話数の“グラフ”と“主なご意見”だけがA4の紙に印刷され、そうして彼らの会議で一瞬話題になる程度だろう。

 

「話題沸騰ですね、社長」なんて具合に。

 

そうした商売が今日もこうして社会的使命感を顔に滲ませた社長や編集者によって行われているわけである。

 

太田出版の本には、例えば『宮本から君へ』といった漫画界屈指の名作があったりする。

 

これから出版される本の中にも今回の件と全く関わりを持たない、良心的な作家と編集者が想いを込めて作ったものがあることだろう。

 

しかしそれらも今回の一件による不買運動に少なからず影響を受けることだろう。

 

もしかしたら誰かにとって素晴らしい本になり得たかもしれない本の多くが、この社長や編集者の判断や商売によって、結局のところ人に届かぬものへと変えられていってしまうのだ。

 

そうして遺族は出版社に弁護士と相談しながら抗議文を書いたりする。

 

思い出したくもないことも思い出すことだろう。

 

あまりに全てがやりきれない。

 

この本を読んで“なるほどな〜彼も苦労したんだな〜”という感想を誰かが抱いたとして、”そうか、社会って歪んでるかもなー”という感想を誰かが抱いたとして、それは果たしてこうした全てのやりきれなさ超えるだけの“社会正義”なのだろうか?

 

私にはよくわからない。

 

 


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150617-00000000-jct-soci&p=1

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