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曽野綾子さんのコラムの本当の問題点 〜差別と区別の本当の違いを理解する〜

 

2015年2月11日の産経新聞に掲載された曽野綾子さんのコラムが、アパルトヘイト政策を推奨する人種差別的な内容であったと南アフリカ含む様々なところで批判を浴びています。

 

このコラムに対して、いくつかの団体が正式に抗議を行っているので、ご存じの方も多いかもしれません。

 

今回は、このコラムの何が本当の問題だったのか?差別と区別の本当の違いに着目してまとめておきたいと思います。

 

バイアスを除き読んでみる

まずは、前提として以下2つを共有しておきたいと思います。

 

1.そもそも原文には何が書かれていたか?

 

メディアを問わず、多くの記事は「伝聞」や「継ぎはぎの編集」によって、ミスリードを誘発するものが多々あります。
リテラシーとしてまずは「原文」を自分で読んでみます。

 

2.誰が言ったか?という判断を一旦棚上げし、原文の内容に基づいて考える

 

ミスリードを誘う手法として、「誰が言ったか?」をメインに擁護や批判を行うことがあります。

 

誰が言ったか?は、その文章の説得力を大きく左右はするものの、その内容が正しいかどうかは決して担保しません。

 

銀の皿に金塊をのせても、土の上に金塊をのせても金塊は金塊です。逆に土を銀の皿にのせても、土は土です。

 

ですので、まずは「誰が言ったか?」を一旦棚上げし、何が書かれているのか?を自分の目で確かめ、考えます。

 

 

これらを踏まえたうえで、最後にこのコラムはどんな問題があったのか?あるいはなかったのか?をまとめておきたいと思います。

 

 

曽野綾子さんのコラム原文の主張、理由、根拠とその問題点

では早速ですが、コラムの原文をご参照ください。

 

曽野綾子コラム原文

 

さて、原文を素直に読むと、このコラムで言わんとしていることは、大きく2つに分かれていることがわかります。

 

 

 

 

 

@ 日本は今後労働力が不足するため、その対応として移民を活用することが望ましい

 

A 移民者たちの文化のうち、住居にについては融和が難しいため、文化により住居を分けることが望ましい

 

 

今回問題となったのは、Aの部分です。
(本当に労働力が不足するのか?とか、移民政策が解決策として妥当か?についての論考はほとんどありませんでした)

 

Aの部分を詳細に見てます。

 

 

Aの詳細

 

○主張
 住居は分けてすむべき

 

○理由
 文化により住居に対する考え方があまりに異なり、共生が難しいため

 

○根拠
 南アフリカでの挿話。白人のみのマンションに黒人が住みはじめ住環境が崩壊した。

黒人の大家族主義と白人の核家族的な住環境文化は相いれなかった。

 

 

さて、この文章を読むと隠れた前提がいくつかあることに気がつくと思います。

 

 

○隠された前提1
 ・黒人と白人は住まいに関する文化が異なる

 

 

○隠された前提2
 ・黒人は大家族主義である

 

 

この前提は、この文章を読まれている方であればすぐに「そうとは言えない」と言えるかと思います。

 

NYに住む黒人(アフリカンアメリカンと言うのが適切でしょうか)は大家族主義でしょうか?

 

そうではありませんね。

 

 

このコラムが差別的だと捉えられる一番大きな理由は、「黒人」という単語で多くの要素を一括りにしていることが原因でしょう。

 

文化に対する感性とは、住まいであれ食であれ、肌の色ではなく自分が育った環境に依存するというほうが納得感があるかと思います。

 

その意味でこのコラムは、肌の色で相手の文化を一括りにする構造になっているため、読者に差別的だという印象を与えるものになっています。

 

差別か区別か?〜差別と区別の違いとは〜

ここまでで、このコラムが「差別的だ」という印象を与える理由を書きました。

 

次に、このコラムに対する批判に対して、曽野さん自身は「差別的な意図はなく、区別をしただけだ」という反論をされています。
(同じ理由でこのコラムを「区別をしただけだ」と擁護されている方もいるようです)

 

こうした言い方を目にする機会は多いかと思いますが、そもそも差別と区別の違いとは何でしょうか?

 

それは一言でいえば、「区別される側」と「する側」の双方が合意していること、この一点につきます。

 

簡単に図にするとこうなります。

 

曽野綾子コラム,差別と区別の違い

 

曽野さんの批判に対する反論としては「差別ではなく区別だ」というものでした。

 

しかし、コラムからは『黒人自身が住居の区別を望んでいる』という根拠は全く読み取れません。

 

仮に区別される側の人間が区分けを望まないのであれば、区別する側の人間が強制的に区分けすることになります。

 

そしてこのコラムは住環境を壊された白人側の立場により近い立場で記載されており、「区別される側がどう考えているか?」の記載を読み取ることはできません。

 

これではアパルトヘイトを推奨していると受け取られても(真意はともかく)仕方がないのではないでしょうか?

このコラムはどう修正されればよいのか?

結論としてはこのコラムは2つの大きな問題があります。

 

1つ。
黒人という肌の色によるビッグワードで、文化的な様々な差異を無視していること。

 

2つ。
区別する側とされる側の意識がなく、”区別される側”の視点が欠けていること。

 

 

以上のことから、このコラムは、「差別的だ」と受け取られても仕方のない文章になっていると思われます。

 

逆に、上記2点より、このコラムに対する以下のような批判、擁護は政治的なバイアスが強く本質的ではないと僕は考えます。

 

 

○彼女は右翼的であり、そんな彼女の発言はダメという批判
○左翼的な人間が曽野さんを批判してもだめ」という擁護
↑誰が言ったかより、何を言ったかを重視するべきです。

 

○全ての区別は許されない
↑区別されることを望むひともいます。

 

○区別はあっていいのだから、この発言に問題はない
↑「区別される側」がその区別に合意していますか?
「区別する側」の立場でしか考えられていないのではないですか?

 

 

個人的にここまで批判的なことを書いてはきましたが、曽野さん自身は僕は好きな作家さんでした。

 

しかし、このコラムは批判を受けても仕方ないと思います。

 

これは想像ですが、おそらく曽野さん自身が「分かれて住みたい」と「区別される側の人間として」思っていらっしゃるのでしょう。

 

(自分は似たような文化を持っているひとと一緒に分かれて住みたいしそのために用意された場所があればそこに住む方がいい。なので)住居は分けた方がいいし、それで構わない、と。

 

なので、おそらく曽野さんも「人種差別的だ」と言われて「どこが?」とびっくりしてしまったんだろうと思います。

 

ただもし本人の意図しない誤解を招く内容であったのならば、真意が伝わるよう文章をブラッシュアップしてもらいたい、と一ファンとして思わざるを得ません。
悲しいです。

差別と区別の違いを敷衍して

さて、せっかくなので、差別と区別の違いを「”する側”、”される側”の合意」という軸で、もう少し敷衍して考えてみたいと思います。

 

実を言うと上記の図、実際には少し乱暴で、もう少し必要な軸があります。

 

みなさんも実際にいろいろと具体例を出してみても面白いかもしれません。

 

○図中@の例にみる、”いじり”と”いじめ”の違い

 

芸人、出川哲郎さんは皆の前でザリガニのハサミで鼻をつままれるなど、女優さんと区別された扱いを受けます。
が、これ当人は望んでいます。(これで何千万と稼ぐわけですから急にいじるのをやめられたら困ってしまうでしょう)
逆に女優さんはこんなことをするとブランド力が落ちるわけで、稼ぎが減るでしょう。

 

これは、芸人と女優の正当な”区別”でしょう。

 

逆に、中学生なんかが、芸人に対するいじりを格下の相手にやる場合、これは単なるいじめ(差別)です。
なぜなら当人が区別されることに対して合意していないのですから。

 

 

○図中A 区別してほしいけれど、区別されないため苦しくなっているケース

 

自分をほかの人間と異なる扱い(区別)をしなかったので憤慨するというケースがあります。

 

例えば義家議員が厚木の成人式で、来客の挨拶の順番が最初でなかったと、激怒りしたということがありました。

 

ニュース記事へのリンク

 

上記の図に照らし合わせると、”自分が最初に挨拶する権利があったのにが侵害された”と憤慨されたのでしょう。

 

これに対し、正当だという人もいれば、どーでもいいことでしょーもない、、、という人もいるでしょう。

 

※ちなみに僕は後者です。会社員時代とにかく上司や同僚のメンツやなんやを理由に物凄く無駄な仕事をたくさんした印象があるので…。メンツとかの世界が非常に苦手です…。

 

 

意見が分かれるということからわかることは、「区別されたい」という欲求に正当性を私たちが認めることができるか?という軸が、差別と区別を考えるにあたっては必要となる、ということです。

 

区別されたい理由に正当性がない場合、恐らく区別されたい側は常に辛いという感情をもつことになるでしょう。

 

こういったケースでは区別される正当性があるのかないのか、議論を重ねる必要があります。

 

もちろん正当なケースもあれば正当でないケースもあるでしょう。

 

何が正当なのか?それは沢山の考えをぶつけ合う他ありません。

 

そしてできる限り正当であれば正当な扱いをされるようになるべきと考えます。

 

 

 

○図中B 区別して欲しくない、けれど区別されて辛いケース

 

図中ではアパルトヘイトとわかりやすい例を出していますが、例えば「18歳未満禁止」というのはどうでしょう?

 

例えば子供は「なぜ先生はタバコを吸っていいのに俺たちはダメなんだ」と言うことがあります。

 

これは図中だと両者の合意がないので”差別”となりますが、実際には大人側は差別ではなく”区別”だ、というでしょうし、これを”差別だ”といってもあまり正当性が感じられないかと思います。

 

なぜ両者の合意がなくても”差別だ”と思わないのでしょうか?

 

それは、

 

・18歳という年齢にさえ達してしまえばその区分けはなくなること
・生きていれば18歳には誰でもなれること
・このことから、将来的にこの”区別”が解消されることを誰もが知っていること

 

つまり、「解消される可能性が全員に平等にあり、また実際に必ず解消されること皆が知っている場合」、私たちはその取扱いの差異を”差別ではなく区別だ”と感じるのだろうと思います。

 

逆に、例えば”男はタバコを吸うのを禁ずる”といった条件ですと、条件の解消の見込みが自然には立たないので、差別だと感じるかと思います。

 

 

○ここまでを踏まえて

 

段々ややこしくなりましたが、図1の単純な4象限に具体例もって深堀すると色々と何が差別で何が区別か、それを分ける条件が複雑であることがわかるかと思います。

 

しかし、重要なことは何をするにも”する側”と”される側”の両者の合意が必要となることが基本事項であるということです。

 

される側の合意を無視して”これは区別だ”という論考があれば、一度”本当?”と考えてみたほうがよいかと思います。

 

皆さんの周りの嫌なこと、変なこと、図にあてはめてみるとどうでしょう?

 

やっぱり変だ!となればせっかくのインターネットです。意見を発信して同じ考えを持つ人と話せるようになればいいですね。

 

差別と区別の違いについてもっと学ぶ

 

アパルトヘイトについてもっと学ぶ

 

 

 

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