もしあなたが自由に生きていきたいのなら

表現の自由という名のファシズムについて

※6/14一部追記

 

 

元少年Aと名乗る人物の手記、『絶歌』が発売された。遺族の了承はない。
また遺族に印税の支払いが行われるかも不明である。

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150613-00003240-bengocom-soci

 

上記リンク先に太田出版社の当手記を担当した落合美佐氏の言い分がある。

 

端的に言えば、『彼の手記に感動した。価値があると思った。ただ遺族の了承は得られなだろうから無断で出した』といったことが書かれている。

 

言いたいことはわかる。
しかしちょっとその感覚には驚く。信じられない。

 

例えば誰かの住所、氏名、年齢、電話番号、職歴、病歴、性癖その他諸々全てをつまびらかにした作品を、編集者が感動さえしちゃえば当人に無許可でどんな内容でも出版していいのか?

 

息子の遺体で性的快楽を得ている描写など、私が遺族であるなら最も表現されて欲しくないことのひとつである。

 

それとも、死人についてであれば――例え自分が殺した相手であっても――もはや何を出版してもいいのか?

 

はっきり言って全然わからない。
この本の出版を、『表現の自由』の名のもと擁護できるとは到底思えない。

 

少なくとも遺族の了承は出版の最低条件ではなかったのか?
それが出版社としての最低限のモラルではなかったのか?
正直に言ってそうした感性のない編集者の感動など到底信頼できたものではない。
(『自分が被害者だったらどう思うだろう』と自分の家族や大切な人を思いながら今回の件を考え、想像する一般の人の感性を断然信頼する)

 

 

ただ今回の一件は、『表現の自由は果たして無制限に保障されるべきか?』ということを考え直すきっかけにはなった。

 

今自分なりに簡単に結論を書くと、『「表現の自由」は原則無制限に保障されるべきである。しかし、表現された内容に応じて適切な流通形態/流通方法があり、それに従うべきだ』ということだ。

 

言い換えれば少年Aが文章を書くのは勝手だが、一般書店に流通させないといけない必然性はなく、また、そのための条件をクリアしていない、というのが私の考えだ。
(逆に言えば彼が彼なりの”良心”に基づき書いたモノを、例えば駅前で勝手に配ることを止める権利まではない、とも考えているし、遺族の了承さえあるのであれば、出版していいとも思っている)

 

詳細は、以降に記載をする。

○『絶歌』基本情報の共有

まず、考えるにあたり、この本の基本情報を抑えておきたい。

・1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人、少年A(酒鬼薔薇)の手記

 

・太田出版に自ら持ち込んだもの

 

・出版にあたり遺族の了承は得ていない

 

・その際、少年Aは遺族の意向に関係なく出版したいと考えていたし、(※1)

 

・出版社も遺族の意向に関係なく出版していいと考えていた(※1)

 

・印税を遺族に支払うかについては、出版社は関与していない(少年Aの自由意思にゆだねられている)(※1)

 

・内容は、事件前〜殺人〜その後を手記という形で書いている。

 

・被害者は実名で描かれている。

 

・被害者の死体で性的な行為をし、射精する様子が描かれている

 

・最後までこの作者“匿名”のままである

 

・最後のあとがきに“私も苦労しました、反省しています”という趣旨の文章が添えられている(※2)

 

・初回10万部発行(1000〜2000万の印税が少年Aに入る計算)

 

・出版社は以下にこの本の意義があると判断している

 

“『少年事件の当事者が『自分の言葉』を本にして出版した例はこれまでないと聞いている。近年、特 異な事件が増えているなかで、『なぜ事件を起こしてしまったのか』『どう償っていくのか』を考え、また『自分は生きていていいのか』と自問する彼の言葉を、社会に明らかにすることは意義があると判断した』”※3

 

・そして、出版社は、遺族に、被害者の殺害シーンを細かに描写したこの本を送り付けている

○出版停止を巡る意見の共有

この本を巡っては「この本は出版停止とすべきか否か」という意見対立がある。

 

ここでは擁護派批判派の論点を簡単に共有し、次に私見を述べたいと思う。

 

▼出版停止派の意見
  ・被害者感情をあまりに逆撫でしている。被害者感情に配慮して停止とすべきである。
  ・表現の自由の名のもとに他者の尊厳を無制限に踏みにじっていいものではない

 

▼擁護派の意見
  ・何人も表現の自由を侵すことは許されない(そのため出版停止は許されない)
  ・少年Aはすでに刑期を終えているのであり、刑期を終えた人間の自由を侵害していい理由はない
  (罪に対し、国の定めた罰を受けたのであり、それ以外の罰は私刑であり、それは容認できない)
  ・知る権利の阻害は許されない。
   少年犯罪史上稀にみる凶悪事件について、加害少年自らその当時の心境を振り返ったことは稀なことである。
   その特異な心理を知ることは社会にとって有益である

 

▼出版停止派に対する主な批判
  ・感情論にすぎず、法治国家ではありえない単純な意見である

 

▼擁護派に対する主な批判
  ・自分自身が同じ立場で同じことを言えるのか?言えるはずない。机上の空論を振り回しているに過ぎない

なぜ一般書店に流通されなければならないのか?

「表現の自由」は素晴らしく、国による検閲や規制について、私は断固反対である。

 

しかし、「自由を行使して一体何を表現するのか?」については厳しく問いたいと思うし、また「表現された内容」に基づき、それぞれに適切な流通形態というものがある、と考えている。

 

 

私の主張の大枠は『書くのは自由だが、一般書店に流通させていい内容ではないし、それで商売をしている人間は下品だ』というものだ。

 

 

作家に対して

 

私は、少年Aの表現欲求を法治国家の観点から見て制限をしようとは思わない。
しかし、なぜ日記やブログではダメなのか、そこについては問いたい
表現欲求ではなく、自己顕示欲、承認欲求の発露、並びに金銭に対する執着としか思えない。
誰かの自己顕示欲や承認欲求、金銭への執着で誰かを傷つけていいと私は思えない。

 

 

出版元に対して

 

私は、出版元に対し、停止せよ、とは言わない。
しかし、遺族の了承を得ないまま、そのことを恥じずに売り出すその態度を軽蔑する。
個人的に太田出版の本は今後買わない。また不買運動があればこれを応援する。

 

 

書店に対して

 

私は、この遺族の了承を得ないままの本を売り出す書店を軽蔑する。
読者の知る権利という名のもとに平棚に並べるその態度を軽蔑する。

 

その意味で取り扱わないと判断した啓文堂書店で極力本を買うようにする。
「長い目で見たときにうちの本屋としての質が落ちる」※4という啓文堂書店を支持する。

 

「うちが取り扱わなくてもどうせ他で買われるなら、うちも売るよ」という姿勢もわかる。
しかしその態度は開き直りであり、品性の欠いた態度だと考える。

 

 

読者に

 

私はまた、一般読者の「知る権利」についても相当に懐疑的だ。

 

この本を読んで一般のひとが一体何を知れるのか?
知った後で、公共福祉への貢献余地は一体どのように拡大するのか?
この本を知らなかったことで一体どんな権利侵害や損害があったというのか?
この本の発売前後で一体読者の生活の何が変わったのか?

 

せいぜいが悪趣味な覗き見欲求が一時的に満たされるだけだ

 

そしてしばらくすればブックオフなりに売られるか捨てられる。

 

そのことが「被害者遺族の感情を著しく毀損する」ことより上位の価値であるとは私には到底思えない。

 

私は、「知る権利」とは単なる覗き見趣味を擁護するための言葉ではない、と考えている。
それは、知らされなかったことで著しく政治的・経済的損害を被ったりすることを防ぐための権利であると考えている。

 

遺族の了承を得ていない以上、今回のケースは覗き見趣味の擁護以上の意味があるとは思えない。

○この本があるべき場所は本当に一般書店なのか?

繰り返すが、私はこの本を規制せよ、と言っているわけではない。

 

本当に少年犯罪史上類を見ない凶悪事件の犯人の心理を知れる貴重な資料になり得るのであれば、例えば大学の研究機関や一部図書館への寄贈のみとして、それで一体なにが不都合なのだろうか?
適切な研究者や一部の熱心な閲覧希望者のみへの回覧という形式でなぜいけないのか?
生存する関係者が全ていなくなった八十年後あたりに公開する形でなぜいけないのか?
それほどこの本は「即時的な公共性がある」のだろうか?

 

よくわからない。

 

 

しかしそうなると困る人がいるのはわかる。

 

作者は自己承認欲求が満たされず、また印税も入らない。
出版社も書店も儲からない。

 

 

一般書店へ今、遺族の了承も得ないまま即時に流通されなければ、それは全て表現の自由の侵害になるのだろうか?

 

私には、“表現の自由”の名のもと、利益を上げ、承認欲求を満たそうとする小ズルい根性しか見えない。 

表現の自由という名のファシズム(全体主義)

擁護派の意見に、「表現の自由」は至上価値だから被害者の感情に配慮する必要はない、というものがある。

 

しかし私にはとてもそうは思えない。

 

表現の自由の名のもと、現実に起こる様々な不都合や難点を無視し、思考停止しているようにしか思えない。

 

私にはこんな風に聞こえる。

 

例えば、クラスで誰か特定の人物がひどいあだ名や罵詈雑言を加えられている。

 

誰にどんな印象をもつかは自由だし、そのことを表現しても構わない。

 

だから皆自由に彼(彼女)に罵詈雑言を加える。

 

耐えかねて彼(彼女)は「やめてくれ」と抗議する。

 

しかし彼らはいう。

 

「俺たち今気分よく楽しんでたんだから、お前空気読めよな」

 

そして、更にその人を叩く。

 

私にはこうしたクラスの風景と何が違うのか、わからない。

 

ようは、全体の利益であると主張する何かのもとであれば個人の尊厳を叩き潰してもいい、という理屈に聞こえる。

 

それはファシズムと何が違うのだろうか?

 

私は先にも書いたが、表現の自由は尊重する。また、知る権利も尊重する。

 

しかし、本当に表現されなかったことで実際に何か損害が生じている場合にこそ支持するものであって、何かが表現されたことで今まさに傷ついている個人の尊厳があるのだとしたら、私はその個人の尊厳を尊重したいと考えている。

 

 

 

私は自分が正しいと思っているわけではない。

 

しかし表現の自由も近代発見された一つの考え方である。

 

時代時代に表れた事象をもとに考え、原理を見直し、その強さを鍛え、問い直していく必要があるのではないか?

 

表現の自由は絶対不可侵という主張は、思考停止の原理主義にしか私には思えない。

○凡庸であるがゆえに再現される邪悪さ

少しだけ本の中身の話をする。(立ち読みとネットに転がっていたページのスキャンをみた。本来は全てを読んでから批判したかったが、この件に関してはとてもお金を払って読む気にはなれない)

 

本の中身は、はっきり言ってどうしようもないものだった。

 

ほうぼうで言われていることだと思うが、表現はどうしようもなく薄く借り物の匂いに溢れ、少しでもまともな本を読んだことがある人であればそこに漂う自己承認欲求と自己顕示欲の匂いにとても耐えられないような、ひどい文章だった。

 

まるでアニメや漫画の下手なハンコ絵(同じ顔しかかけない素人漫画家を揶揄する言葉)がズラッと並んでいるようだった。

 

 

14歳当時、彼の犯行声明文に、――たとえそれがパッチワークであったとしても―― 一部の知識人、マスコミ、“感受性の強い人々”が強く反応した。

 

狂気ではあるが、天才。それがそうした人々に一致する見解であったように思う。

 

そしてそうした人々は、今回の本を読み、驚いたのではないだろうか。

 

そこには先にも書いたように、凡庸極まる文章の羅列しかなかったからである。
(出版社が彼の文章を評価したことにただ驚く)

 

彼は異常者であったが、しかし天才ではなかったのだ。

 

生まれ持った彼の異常性癖は障害と呼ぶべき悲惨な性(サガ)ではあったものの、しかし彼の言語能力や表現力は凡庸極まるものだった。 

 

彼は単なる異常者だった。

 

異常に生まれるというのは悲劇である。しかしその悲劇を表現する能力は彼にはない。
彼は素材ではあっても作家ではなかったのだ。

 

 

 

ある書店員さんのブログを読んだ。

 

内容の骨子としては、「売りたくないけど、売れと言われるから売るしかない」というものだった。

 

私はこれを非難することはできない。

 

サラリーマンであれば皆同じ気持ちになったことがあると思う。

 

個人としては反対だが、しかしどうしようもなくて、なにかの片棒を担いでしまう時の気持ち。
そこには、凡庸で力のない一庶民の嘆きがあった。

 

そしてそれは、(私を含め)私たちのおよそほとんどに該当することだろうと思う。

 

わたし達はサラリーマン金太郎でもなく、ひとりで反逆し、社内の空気を一変させるということはおおよそ不可能である。
そう私たちは感じているし、事実そうであるとも私も思う。
(だからダメなんだよ、根性根性!みたいな人とはこのことについて話をしたくない)

 

 

また、書店の店主も同じようなものだろう。
「売れるから売れ」という命令を受け、「売りたくないが売っている」

 

 

一方、出版社どうだろう?
「売れるなら売ってしまえ」かもしれない。
この本の利益により業績を回復させ、自身の評価につなげたい、というトップの判断はあっただろう。

 

ここには凡庸な人々が凡庸なるがままに仕事を連鎖させた結果として、被害者遺族の方をどうしようもなく傷つけることになった現実がある

 

 

天才は、その天賦の才によって恐るべき成果を達成するが、しかしそれは天賦の才であるがゆえに社会としての再現性はもたず、あくまでその成果は彼限りの一回性のものである。

 

しかし、凡庸さは違う。
凡庸さは、その凡庸さゆえに、再現性を持ち、いつ、どんな場所でも同じことを起こすことができる。
今回の騒動に関わるものに、天才はいない。
みな凡庸ゆえにしかたなく、それぞれの少しずつの利害を優先させながら、そして事態を恐ろしく凶悪なものにしていく。

 

首を切って射精する少年はそうそうに社会には出てくるものではない。

 

しかし、このように、どうしようもない本でひどく誰かの尊厳を傷つける事態は、これからも何度でも起こるだろう。

 

私はこの凡庸なるがゆえに再現性を持ち、誰しもが加害者としての役割を少しずつ担うこの現実に、ある種の邪悪さを感じずにはいられない。

 

そしてその邪悪さは、いつなんどき自分に牙をむくかわからない。
いま、被害者感情を無視していいという人、特にこの本の出版を決断した人は、自分の子どもやペットが惨殺された手記が無断で出版されてもどうかそのことに抗議しないでいただきたい。

 

そしてそうした事件が今日あなたに起こらないと言い切れる人はどこにもいない。

 

被害者はまさしくそんなことは起こらないと考えていたことだろう。
しかし”彼”は突然やってきて、理由もなく被害者を”選び”それを実行した。

 

いつかあなた自身が当事者になったその時に、「やっぱりこの立場は嫌です」といってももう遅い。
そしてそれは”今日”かもしれないのだ。

 

※啓文堂への支持表明の記事をエントリーしました

 

 

 

※1 出版社へのインタビューより
http://www.j-cast.com/2015/06/10237465.html?p=2
※2 あとがき参照
http://quadstormferret.blog.fc2.com/blog-entry-224.html
※3 編集者へのインタビュー
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150612/dms1506121140002-n1.htm
※4
http://www.shinbunka.co.jp/news2015/06/150612-01.htm

 

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