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【書評】想像ラジオのテーマと答え、そしてこの小説の欠点

 

今回は芥川賞候補にもなりました、いとうせいこうさんの『想像ラジオ』を取り上げたいと思います。

 

2016年現在、いわゆる“震災文学”(東日本大震災ならびに福島の原発事故をモチーフにした小説群※)と呼ばれるものがいくつも出版されていますがその中でもこの作品は『かける想い』とも言うべき熱が物語の中に幾層にも織り込まれており同種の小説群の中でも頭一つ飛びぬけた存在ではないか、というのが個人的評価であります。

 

※例えば吉本ばななさんの『ヒアアフター』や、高橋源一郎さんの『恋する原発』、川上弘美さんの『神様2011』等々どれも良い小説です

 

ただ正直に言ってこの作品は同時にある種の拒否感を読み手に与える側面もあったようで、どうにも宗教臭く受け付けられなかった、という方も多かったようです

 

ここではこれらの意見も踏まえたうえで自分なりにこの作品の何が素晴らしいのか、また、この作品の一体何が弱点であるのかという点について作品構造に基づきながらまとめていきたいと思います。

 

まずはこの本の基本情報について簡単にご紹介させていただきます。

●『想像ラジオ』の概説と発売時の評価

2013年1月に文芸誌『文藝』上にて発表されたこの『想像ラジオ』は掲載当初から各地で話題となり、書籍化されて以降も各地の書店では震災文学の代表作として大きく取り扱われました。

 

昨今の文芸不況の中では異例の30万部を超える売り上げを記録するなど発売当初から極めて良好な結果を出すことに成功した作品でした
(文芸書は1万部行けばOKという世界らしいので相当なヒットと言えるでしょう)

 

また文壇からの評価も高く、その後、野間文芸新人賞など複数の文芸賞を受賞、同年三島賞、芥川賞候補にもなっています。

 

結局芥川賞の受賞は逃すのですが、当時の選考委員のひとりでもある山田詠美さんの選考コメントを見る限り、『原発批判を行ったために非常に低い評価をする選考委員もいた』という政治的判断が一部存在していたという背景があったことが読み取れます。

文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌]
※実際本書には、原発事故によって発症した癌患者の姿と共に行政批判をする描写が一部描かれています。

 

もちろんこのコメントひとつをとって受賞をしなかった理由が『政治的判断によるものである』とするのは早計ですが、少なくとも芥川賞選考の場面においてさえも原発問題は全く無縁な代物ではないことは見て取れます。

●作者いとうせいこうさんについて

作者はテレビ出演も多いあのマルチクリエイターである、いとうせいこうさんです。

 

いとうせいこうさんが小説を突然執筆したことに驚かれた読者の方もいたかもしれませんが、元々いとうせいこうさんは、『ノーライフキング』をはじめ80年代より小説を執筆し、そちらも野間文芸新人賞候補にあがるなど元々が小説家として非常に高い評価を受けていた方でもありました

 

また、いとうさんの活躍はこれに留まらず、実は日本のHipHopの創成期にも非常に重要な役割を果たされており、今も口ロロ(くちろろ)というグループにてMCを張り、多くの日本のHipHopミュージシャンから現役で熱くリスペクトを受けている方でもあります。

 

さて、そうしたいとうせいこうさんもある時期を境にパタッと小説を書けなくなったということをインタビューの中で語られているのですが、この『小説を書けなくなったが再び書けるようになった』という背景が、実はこの作品の読み解く際の非常に重要な要素である、というのが僕の意見なのですが、そのことについては作品そのものの中身の話を交えながら次にまとめていきたいと思います。

 

※詳細は公式サイトインタビュー参照
http://www.kawade.co.jp/souzouradio/

●想像ラジオの『本当のテーマ』

この作品は一読してわかる通り、東日本大震災をモチーフとして生き延びた者は『死者とどのように向き合うのか(できるのか/べきか)』という問いかけがひとつのテーマとなっています。

 

が、実はその裏に『なぜ私たちは小説(フィクション)を必要とするのか』というテーマが隠れていると僕は感じました。

 

この小説には、多くの優れた小説がそうであるように『小説とはそもそもなんであるのか?』という自己言及的姿勢が色濃くある。

 

そしてこの作品が何よりも評価されるべきポイントは、この表のテーマ『震災と慰霊』と、裏のテーマ『なぜ私たちは小説(フィクション)を必要とするのか』と二つのテーマが、それぞれ作品構造全体の中で有機的に絡みあい相互補完することに成功している点にあるのです。

 

これこそ、この作品と凡百の震災/慰霊モノとを画す要点があります。(と考える)

 

一方でこれらのテーマの絡まりのほぐし方がこの小説は非常に『理屈っぽく』、にも関わらず少しオカルトチックであるという点がこの小説の弱点でもあり、読者への説得力を一部損ねてしまってもいる、というのが僕の意見です(偉そうですね、、、すいません)。

 

さて、このあたりのことを述べるために、まずは簡単にあらすじと作品構造を共有しておきましょう。

 

 

●あらすじ

 

東日本大震災を思わせる地震・津波で壊滅したと思われるとある場所の樹上にひっかかったままの男、彼の名はDJアーク。
彼は電波もなく電源もなく声もでないけれど軽快なトークを人々の想像力に乗せて放送を始める。
やがてそのラジオには沢山の――生死を問わない――ひとびとが耳を傾け、声を届けはじめる。
一方その頃、作家Sは「死を悼む」とは何かに煩悶している――

●作品構造とテーマ解説

さて、それではこの作品構造とテーマとの関わりについて簡単ではありますが、まとめてみたいと思います。

 

まずこの作品は、全体で5章、奇数章はDJアークを主人公として、偶数章は作家Sを主人公として話が進んでいきます。

 

DJアークはこの小説の中では『死者側の声の依り代』的存在であり、いわば『あちら側(死者の世界)』と『こちら側(生者の世界)』との中間ポイントとして設定された存在です。

 

一方、一読して作者いとうせいこうを思わせる作家Sはあくまでもボランティア活動や不倫、タレント活動などにいそしむ、現実世界『(こちら側)』の存在として描かれます。

 

 

DJアークと作家Sは当初は直接の関係はありません。

 

作家Sには『DJアークの(死者の)声は(聞こうとしても)聞こえない』。

 

これはこの小説の見事なところでありますが、『死者の声が聞こえる前提』で話は進みません。

 

それはそうでしょう、今私達の生きる世界では『死者の声』は明確に聞こえるものとは言い難いですから。

 

主人公である作家Sを私達(一般人)と同じ『死者の声』の聞こえない存在にすることで、『死者の声が聞こえないことを当然としている私達読者』が物語に参入する心理的な垣根を低くすることに成功しているわけです。

 

そしてそんな彼が『どのようにすれば死者の声を聞くことができるようになるか』について煩悶する。

 

いわばこの小説は『聞こえない状態』から『聞こえる状態』に変化するために私達はどのような思想を必要としているのか?』を小説の形を借りて思索したものであると言えるかと思います。

 

その意味で作家Sが『死者の声を聞ける状態へと変化する』ポイントとロジックこそが、この小説の核(コア)であるとも言えるかと思います。

 

では次に、この核の部分について簡単に整理をしてみます。

●『どのようにして』作家Sは死者の声が聞こえるようになったのか?

第2章で、『死者の声』に関する多くの議論がなされています。そこでは、以下のような論点が上がっています。

 

  1. 死者の声を無視するのは不誠実ではないか?
  2. 聞こえないものを、当事者でもない人間が聞こうなんて、それこそ不誠実なんじゃないか?
  3. とはいえ、聞こえないからといってじゃあ聞こうとする態度そのものすら捨ててたらそれこそ不誠実なのではないか?

(恐らく『想像ラジオ』に批判的な書評やレビューをしている人はAの感情が強いのだと推察します。本書では「とも君」がこの立場で議論を行います)

 

ではこの小説はこの@〜Bの論点に対しどのように向き合ったのでしょうか?

 

作家Sは当初震災の死者の声を聞こうとして聞くことができません。
そしてこれは最も重要な点の一つなのですが、作家Sは結局最後まで震災の死者の声(DJアークの声)を聴くことはできていないのです。

 

彼が聞くのは、あくまでも彼がごく個人的に深く繋がり、愛した一人の女性の声だけなのです。

 

 

作家Sと彼女はこんな会話をします。

 

「そうか、夢の中の君とつながれば!」
「わたしを通してあなたは悲しむ」 ハードカバー版 P140より

 

 

愛する人/大切な人との別れを経験した時、人はその誰かとの架空の会話を想像することがあります。

 

消えてしまった誰かがいたかつての風景や言葉が思い浮かんでは消せずに、答えることのできなかった相手から質問の答えや、問いただしたかった言葉を想像の中で反復する。

 

続きの生まれえない会話と知りながらも想像しないわけにはいかない。

 

こうした感情は非常に個人的で、その”中身”を他人と共有することは困難です。

 

「あの人と私だけが交わした”あの”会話を知りはしないのだから、誰にもこの気持ちは分かってはもらえないだろう。」

 

そんな風に感じます。

 

しかし、どうでしょう?

 

そうした想像をせざるを得ない気持ち”そのもの”は愛する人を失った人に共通する感情とは言えないでしょうか?

 

私達は私達の私的で個別の風景や感情”そのもの”を他人と共有することは恐らくは難しいでしょう。

 

当事者でない限り、他人の死の痛みを分かち合い、その死を悼むことはできない。

 

けれど『死を悼む時に感じる気持ちや痛み』は他人のものであっても自分の痛みを通じて他人の痛みを『想像』することはできます。

 

同じ気持ちにはなれないかもしれない。けれど同じ方角を向くことはきっとできるはずなんじゃないかと、この小説は訴える。

●『あちら』と『こちら』を繋ぐ一羽のハクセキレイ=想像力と愛

結局、DJアークと作家Sは最後まで直接つながることはありません。

 

彼らの痛みは彼らの痛みとして閉じたまま、見知らぬもの同士を直接には接続(コネクト)しません。

 

しかし、愛するものの死という共通の経験が彼らの想像力を繋ぐのです。

 

その最も象徴的なシーンが奇数章(あちら側)と偶数章(こちら側)の両方に登場する一羽のハクセキレイです。作家Sの愛した人は一羽の美しいハクセキレイとなって飛び立ち、時折作家Sと会話をします。そしてそのハクセキレイはDJアークの引っかかった木の傍で佇み、その姿を目撃する。
作家Sはハクセキレイを通じ、DJアークの言葉を聞こうとする。死んだ人間の言葉を聞こうとする。

 

確かにこれは一見してオカルトチックに感じる人もいるかもしれません。

 

けれど本当にそうなのでしょうか?

 

きっとそうではありません。

 

なぜなら、全ての小説は(物語は)このハクセキレイと同じように実際に死者の言葉や風景を伝えることがすでにできているからです。

●ハクセキレイとフィクションそのものとの関わり

例えば『ライ麦畑でつかまえて』でも、『カラマーゾフの兄弟』でも、『ノルウェイの森』でもなんでも構いません。

 

あるいは死んでしまった人の日記でもいい。

 

あなたに深く突き刺さった小説を、漫画を、映画を、レコードを、文章をひとつでも思い浮かべてみてください。

 

そこでは恐らく多くの『死』や『喪失』や『達成』が語られ、私たちはそれを読み、聞き、まるで我がことのように感じ胸震えた瞬間があったはずです。

 

 

見知らぬ人の、見知らぬ場所の、すでに死んでしまった人の言葉であれ私たちは感動する。共感する。

 

ではこの感動はオカルトなのでしょうか?そこに思い浮かんだ風景はオカルトなのでしょうか?

 

 

言葉とは、そもそもが誰かの心象風景を誰かの心象風景に再現する『力』を持っています。

 

それは発した人の生死すら問わない強さを持っています。

 

ここで少し、『想像ラジオ』というメタファ―について思い返してみましょう。

 

それは架空の電波に乗り、言葉を伝え、聞き手の中に見知らぬ誰かの風景や、見知った自分の過去や未来を思わせる力を持っています。

 

何かに似ていると思いませんか?

 

『想像ラジオ』とは私達の想像力の本質を表現しようとしているものでもあると僕は思います。。

●欠点があるとすれば〜隠された価値観と断罪〜

最後に少しだけこの小説への不満を書いておきたいと思います。

 

 

『どうすれば死者の声は聞くことができるのか?』というこの小説はメインテーマには『死者の声は聞かれるべきである』という価値観が前提として隠されています。

 

第2章で『死者の声を聞こうとするのは不遜である』と語るナオ君というキャラクターももちろん居はします。

 

しかしこの小説は『死者の声は聞こえない/聞くべきでない』という人を『論理では説得できていない』。

 

結局『でも聞こえるものは聞こえるんだよ』、と2章をぶった切ってしまいナオ君的見解はその後この小説には触れられなくなるばかりか、『想像ラジオが聞こえないのはこんな人だ!』と、糾弾する姿勢すら見せます。

 

この小説には『死者をより良く弔おうとするのは当然だし、それは良いことだよね。だから耳を澄まそうよ』という価値観がすでに疑う必要のないものになっています。

 

要は『目的(What)はすでに正しく、後は『やり方(How)』が問題だ』という状態です。

 

ですが本当にこの価値観は正しいのでしょうか?

 

正しいかもしれません。

 

けれど『死んだ人間を弔おうとする行為そのものを偽善的に感じる』人々は間違っており、『許されざる人々』なのでしょうか?

 

作家Sは決して、死者の声を聞こうとしない人々の心理を理解し、その人々の心理に共感しようと、そういった人々のことを想像しようとはしないように僕には見える。

 

この小説はそうした『間違っている』人々に対して、『想像しろよ!』とアジるだけに終わってしまっている。

 

その意味で、この小説はその根底に本当の意味では他者理解をしようとしていないのではないか? 自分の正しさを”どう”証明するかにだけヤッキになってしまっているのではないか? と僕は思わざるを得なかった。

 

僕はこの小説のモチーフはもう一歩先にいける力がまだあり、この小説はまだそこを掘り切れていないのでは、と感じもしました。(偉そうですが……) 

 

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